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その「ライオンはねている」という、少し変った名前の喫茶店は、ぼくの通っている大学の裏通りからもう一本細い道を入ったところにある住宅街の一画にあって、名前以外は、全体が焦げ茶に統一された店構えもごく地味だったから、学生でも入ってくる人間はあまりいなかった。 まあ、そこのマスターが、ライオンというより、ドーベルマンが苦虫を噛み潰したような顔(サングラスをかけたら、絶対にあの業界の人間にしか見えない)だったから、若い連中がたむろするという雰囲気でなかったせいもあるかも知れないが。 だが、そのマスターが入れるコーヒーは抜群にうまかったし、通ってみると、マスターもその顔つきを除けば、無口なだけで特別恐ろしい人物でもなさそうだと判って来て、ぼくはしょっちゅうそこに腰を据えて、つまりは授業をサボりに行っていたというわけだ。 その日も、ぼくは、マスターの入れたキリマンジャロを飲みながら、文庫本を読んでいた。 土曜の午前中で、他には客もいなかった。 そこへ、店のドアを開けて、誰かが入って来た。 誰かが、といったが、それが誰なのか、見当はついていた。 ぼくの他に良くこの店に来ている若い人間がもうひとりいるのだが、その彼女、だなとドアの開け方だけで判った。 ぼくが、この店に通っている理由のもうひとつがその女の子だった。 多分、高校生だと思うのだが、学校の終わったころになると、この店にやって来て、カウンターの一番隅でコーヒーを飲みながら、いつも1時間ばかり本を読んだり、時には編物なんかしながら過ごして帰っていくのだ。 マスターの知り合いなのかとも思うのだが、二人が話を交わしているのはほとんど見たことがなかった。マスターと向かい合うと、まさに子兎と野獣という感じのツーショットなので、その方がむしろ自然ではあったけれど。 彼女は、髪の長い、色の白い大人しそうな女の子で…、 はっきり言ってしまおう。彼女はとびきりの美人だった。そして、ぼくの好みだった。 一度、思いきってマスターに、どこの子なのかと聞いてみたのだが、マスターはにやっと笑ったきりで答えてくれなかった。 今日辺り、会えたら、思いきって声をかけてみようかなと考えていたところなのだ。 ところが、その決心は果たされなかった。 彼女に、連れがいたのだ。それも男だ。 ただ、その男は、3、4才の子ども、だったのだけれど。 カウンターのいつもの席に座った彼女と男の子を見比べながら、マスターはしばらくとまどったような顔をしていた。 「弟なの」 彼女が言うと、マスターは、ああ、と少し間の抜けた声を出した。ぼくも、思わず釣られて、ああと声を出しそうになって、慌ててカップの冷えかけたコーヒーを飲んだ。 「ライオン、はねている」 その時、男の子が、大きな声でコースターに書かれた文字を読み上げた。 「なんで、ライオンが跳ねてるの?おじさん」 きかれて、コーヒーの支度をしていたマスターは、びっくりしたような顔で男の子を振り返った。 「ばかね。ライオンが跳ねているんじゃなくて、ライオンが寝ているのよ」 代わりに、女の子が答えた。 「なーんだ。 でも、何で、ライオンが寝てるの? やっぱりおかしいや」 男の子は、照れ隠しのようにちょっと生意気な口調でそう言った。横顔を見ると、彼女によく似た、色の白いかわいい男の子だった。 「これが、お店の名前をとった、曲だよ」 コーヒーを落としながら、マスターは流していたCDをかけかえた。 時々店で流れている曲が、スピーカーから広がった。 「トーケンズの「ライオンは寝ている」って曲さ。 この曲が好きだから、店にも同じ名前を付けたんだよ」 普段は、ほとんど話をしているところを見たことがないマスターが、その子には、優しく教えてやっているのが不思議なものに見えた。 独り者と聞いていたけれど、案外、子ども好きな人なのかも知れない。 それが証拠に、彼女にコーヒーを入れたあと、いつもは、気が向いた時にしか作らないクレープを手早く焼くと、クリームソーダを頼んだ男の子の前に、 「ほら、サービスだよ」 と出してやったのだ。 「ありがと。 あ、バナナクレープだ。 ラッキー」 男の子は、はしゃいだ声を上げた。 女の子は、それを見ながら、だまってマスターに頭を下げた。 「バナナクレープ、と、じゃなかった、パパも好きなんだよねえ」 クレープをほお張りながら、男の子が言った。 「そうね」 と、何故か困ったような口調で、女の子がうなずいた。 しばらく、「ライオンは寝ている」の陽気でまったりとした歌声だけが、店の中に流れた。 「あ、かあさんと、パパだ」 クリームソーダとクレープを平らげた男の子が、店の窓から外を見ながら声を上げた。 釣られて、マスターもぼくも窓の外に目をやった。 窓の外に、一組の男女が立って、店の中をのぞき込むようにしていた。 女の人は、髪は茶色に染めているが、女の子と男の子によく似たきれいな人だった。 男の人も、背の高い渋い二枚目で、二人並んで立っていると、まさに美男美女という組み合わせだった。 あの二人の子どもだったら、こんな美少女が生まれても不思議はないなと、ぼくは胸の中で呟いた。 こちらの視線に気がついた男の人が、マスターの方を向いて軽く頭を下げた。 女の人は、気がつかないかのように、どこかよそを見ていた。 「さ、行くわよ」 女の子が、立ち上がって男の子に声をかけた。 「うん。 ぼくたち、明日から、パパの仕事でアフリカへ行くんだよ。 ライオンが寝てるとこ見られるかもしれないね、おじさん。 クレープごちそうさま」 男の子は、ぺこりとマスターに頭を下げると、ドアを開けて飛び出していった。 女の子は、お金を払うために、あとに残ってレジの前に立った。 「アフリカは、いつまで行ってるの?」 代金を受け取りながら、マスターが尋いた。 「出張じゃなくて、あの人の転勤について行くの。 だから、当分ここにも来られないと思って。 それで…」 「それで、弟を連れてきたのかい?」 「ええ」 「そうか、ありがとう。 あれ以来、顔見てなかったものな」 え?何で、マスターが礼を言うの?と、疑問符がぼくの頭の中を飛び交った。 いや、それより、彼女が当分ここに来ないということの方が問題なのであって…。 おつりを受け取ると、彼女はドアに手をかけた。 「元気でな」 マスターが言うと、半分泣きそうに見える笑い顔で彼女は振り返った。 「ええ、大丈夫。 新しいパパは、とっても優しい人よ。 だから、母さんも幸せだって。 じゃ、元気でね、とうさん」 焦げ茶のドアは、音もなく閉まって、店の中にはそのドアを寂しげに見つめるマスターと、ぼう然とするぼくだけが取り残されていた。 その二人を、リプレイされた「ライオンは寝ている」の暢気な歌声が包みこんだ。
by htmkuromame
| 2005-02-10 11:31
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