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「世界」が、「地球」のことであるとすると、その中心は、オーストラリアなぞにあるわけではない。球体である地球の中心は、その核の中にしかないからだ。地球の半径、約6370キロ余りを掘り進まなければ到達することは出来ない。 なかなか大変なことである。 夢もロマンもない話だが、えてして現実なんてそんなものだ。 それに比べて、日本の中心はかなり行きやすい。しかも、あちこちにあるのである。 不定形な「国」というものの中心をどこにするかは、地理的な話ばかりでなく、ある意味非常に政治的なごり押しやら、観光目当ての思惑やらで、そう簡単に答えは出てこない。 だから、逆に言うと、名乗り出た者勝ちなのである。 写真は、長野県の辰野町の山の上に立っている「日本中心の標」だが、わたしの住んでいるまちにある生島足島神社にも「日本中央 生島足島神社」という標が堂々と立てられている。 もちろん、どちらにも科学的な根拠があるわけではないと思う。まあ、何となくこの辺だろう、というくらいの大ざっぱな決め方だろう。それで誰も文句をつける人はいない。 このくらいのアバウトさが、世界の流れであるならば、戦争も起こらないであろうに。 イラクで亡くなったカメラマン、橋田信介氏の「イラクの中心で、バカとさけぶ」(アスコム)を読み終わった。 「戦場ジャーナリストとは詐欺師である」とうそぶきつつ、イラクの夕日に向かって「世界のバカヤロウ」と叫んだ男の最後のメッセージである。 読了して、合掌。 今の世界は、政治的に見れば、やはりアメリカを中心に動いている(いや、好き勝手に動かされているのか)。だがしかし、ではいったい「真の世界」は何を中心にして回っているのか?という、ごく哲学的な問題に思いを巡らせてみれば、結局世界の中心は、そのひとの心の中にしかないのだという答えが出てくるのではないだろうか。 さて、その中心で、人はいったい何を叫ぶのだろう? それが「愛」ばかりであるならば、世の中は、もっと平和になるのであろうに。 ※「世界の中心で愛を叫んだけもの」という有名なSFの短編集がある。勿論こちらの方が、例の小説や映画よりずっと古い(1969年/ハーラン・エリスン)。「世界の中心で、愛をさけぶ」というタイトルを聞いて、「おいおい」と呟いたSFファンも多かったことだろう。 映画の出来は、まあ、平凡だったが、原作はどうなのか?多分、読むこともないと思うのだが…。(映画については、またの機会に)
by htmkuromame
| 2004-06-09 21:45
| 雑多な感
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