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和泉式部、というと、百人一首の中に、 「あらざらむ この世の他の思い出に いまひとたびのあふこともがな」 という歌があったなあ、という程度しか知識がない。 というだけでは、話がそこで終わってしまうではないか。 何故、それしか知らない和泉式部の名前を持ち出したかというと、先日諏訪に出かけた時、温泉寺という寺の墓所で、「和泉式部の墓」なるものを見たからだ。 境内で看板を見かけて、へえ、こんなところにあの有名人(といっても平安時代の人だけれど)の墓があったのか、諏訪で亡くなったのか、と思いながらそこまで坂道を登ってみた。 温泉寺は諏訪藩主の菩提寺で、その立派な墓があるのだが、そこから少し降った墓所の片隅に、他の墓石に混じってそれはあった。 だが、何か変なのだ。看板はちゃんと立っているものの、お墓に行くには生い茂った雑草をかき分けねばならず、墓石自体も草に囲まれて、少しも手入れがされていない。 小さな丸い墓石(五輪塔のようだ)の前に、水の溜まった空き瓶が寂しく置かれているだけである。 家に帰ってから、調べてみると、「和泉式部の墓」なるものの正体が判った。 和泉式部は、出生と晩年がはっきりしない女性らしいが、昔、高野聖や歩き巫女が和泉式部の名を用いて各地を回り、勧進のために信仰と結びつけて、式部の伝説や古跡を残したということがあったようだ。 まあ、諏訪にかかわりがあるところで言えば、「甲賀三郎」の伝説が日本各地にあったり、また、弘法大師が杖の先で掘った井戸や温泉というのが日本中にある、というのと余り変らない話であったのだ。 それにしても、ただ単に「和泉式部の墓」とだけ書かれた案内板は、なんとも不親切なことではある。草ぐらい刈って上げても、いいではないか。 だが、しかし、自分のものだという墓が日本中にあるのを、和泉式部自身は、あちらでどう思っているのであろうか…。 ※和泉式部=生没年不明。越前守の大江雅致(まさむね)が父といわれる。平安時代中期を代表する歌人(三十六歌仙のひとり)。和泉守橘道貞と結婚し、夫の官名により和泉式部と呼ばれる。道貞と別れてから冷泉天皇の皇子為尊親王、敦道親王と情熱的な恋愛をして『和泉式部集』『和泉式部日記』などを残す。両親王が亡き後、藤原道長の娘、一条天皇中宮彰子に仕える。やがて藤原道長の家司である藤原保昌と再婚。晩年は不祥。 恋多き女性、であったようである。
by htmkuromame
| 2004-06-14 19:03
| 雑多な感
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