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久々この辺りにも何か影響があるかもしれない。 花が倒れるくらいで、たいした影響もなく通り過ぎてしまうかもしれないが、過ぎ去ってみなければそこはなんとも言えない。 子どもの頃は、台風が近づくとなんとなくわくわくして、妙に興奮したりしたものだが、大人になるとそうばかりも言っていられない(まあ、どこかにそうした気分が残っていないではないけれど)。 自然の災害ばかりでなく、人間というものは、いつでもなにがしかの漠然とした不安を抱きつつ生きているものだと思う。 四六時中そんなことを考えていたら、それこそ生きてはいけないから、普段は意識の中から締め出しているに過ぎない(それが出来なくなるのが、いわゆる「鬱」という状態だろう)。 ある出来事があってから、「くよくよ悩んだり」「ぶつぶつ愚痴を言っていても」結局解決することなど、実はこの世にひとつもないのだと思ってから、なるべく能天気に生きて行こうと心がけている。 「くよくよ生きても一生。笑って生きても一生」だ。 自分が具体的に動かない限り、動いてくれる事象というものは、人間界には存在していない。42.195キロのマラソンコースも、スタートラインの後ろに立って行く先を考えているだけでは、実は存在しないのと同じことだ。一歩でも二歩でも走り始めれば、そのとき初めてマラソンコースというものがその人にとって具象化したことになる。 走り始めれば、くよくよ悩んでいる暇も、愚痴をこぼす暇も無い。それをするには、立ち止まってエネルギーの使い道を変えなくてはならない。 そして、その間、誰かが自分の代わりにマラソンを続けてくれるわけではないのだ(自分が動かないのに、人が自分思い通りに動いてくれるなどということは、100%ない、と思っていた方が精神衛生上よろしい。リーダーが自ら動かないでうまく機能している団体などというものを、わたしは見たことがない)。 同じエネルギーを使うのなら、自分のマラソンに使った方がよほど意味がある。ゴールにたどり着けるかどうかは考える必要はない。たまたま、42.195キロを過ぎれば一応マラソンコースのゴール地点までたどり着いたというだけのことで、そこで人生が終わるわけではない。そして、結果的に42.195キロまで届かなくても、走っていることの意味が変ってしまうわけでもない。 が、能天気に生きているからといって、人間の中から漠然とした不安が消え去ることはないだろう。その不安は、生物としての自己保存本能から出ているものだからだ。 それはそれでいいのである。 漠然とした不安をどこかに意識しつつも、能天気に生きて行ければ、人間としてのバランスはとれているのではないだろうか。 誰だ?あんたはもう少し悩んだ方がいいなどと、言ってるのは。
by htmkuromame
| 2004-06-21 21:46
| 雑多な感
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