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「クローンについては、ご存知ですよね」 男は、20年ほど前に世間から姿を消した頃と余り印象の変らぬ爽やかな笑顔で言った。 確か、20代でノーベル医学賞を取れるほどの才能がありながら、何かで学界ともめてその世界から去ったと言う噂だった。 彼は、その頃の男の写真を、何回かTVや雑誌で目にしていた。 「では、施設をご案内しながら、詳しいお話をしましょう」 男の後について、厳重に施錠された分厚いドアを通り、その部屋に招き入れられた。科学の実験室のような、薬品の匂いが漂っている。その部屋の中に、いくつもの金属製のタンクが並べられていた。 「まず、成体から取り出した体細胞、つまり、皮膚や筋肉の細胞の核を、未受精卵に移植します。 この方法だと、理論上新しく作られる個体の遺伝子の構成は、もとの細胞の遺伝子とほぼ同一になります。それに体細胞はいくらでも取れますから、クローンを無限に産生することもできるわけです」 そう言いながら、男は、最初の小さな金属タンクの前に彼を連れて行った。タンクに取り付けられたガラス窓の中に、オレンジ色の液体が満たされていた。 「この中に、その、核移植された卵子が入っています。 といっても、肉眼では見えませんがね。 このモニターで、見ることが出来ますよ」 言われて、タンクの横のモニターに目をやると、そこに細胞分裂をはじめている卵子が映し出されていた。 「この卵子を培養して、発達段階に応じてタンクを移して行き、ついにはちゃんとした赤ん坊にまで育て上げるわけです」 「赤ん坊?」 「そうです。もちろん人間のね」 男は、爽やかな笑顔を崩さずに答えた。 「人間のクローンは…」 「禁止されていますよ、もちろん。 でも、だからこそ、価値があるんじゃありませんか?」 そう言う男の笑顔が、何かしら悪魔のように見えた。 男は、説明を続けながら、次々とタンクの中を見せて行った。 タンクの中には、学校の授業で習ったような様々な発達段階の人間の胎児が、それぞれ液体の中に浮かんでいる。 最後のタンクには、ほとんど完全な形をした人間の赤ん坊が頭を下にして眠っていた。時々からだを動かしてはいるが、まるで、良くできた人形のようだ。 「本当に生きているのかね?」 彼は、思わず聞いた。 「もちろん」 男は答えると、最後のタンクのうしろにあったドアを開けた。 そこは、何の変哲もない、リビングのようだった。そのリビングのソファに、赤ん坊を抱いた若い男が座っていた。 若い男は立ち上がって、彼に手を差し伸べた。その爽やかな笑顔は、20年前にTVや雑誌で見た、あの頃の男のそのままだった。 「これは…」 若い男の手を握りながら、彼は絶句した。そして、男の腕の中の赤ん坊に目を移した。 その赤ん坊もまた、小さいながら、男の特徴をことごとく備えた顔をしていた。 「そう、これがわたしの遺伝子をそっくり受け継いだ、せがれ第1号というわけです。 そして、赤ん坊は、つい最近せがれの細胞から生み出された孫、のようなもの、です」 「うーむ、完璧だ」 彼は、思わずうなった。 「ええ、もちろん。 わたしは、せがれをこの世に生み出したために、表舞台から去らねばなりませんでしたが、少しも後悔なんかしていませんよ。 あなたは、ご自分の莫大な財産を本当の血を分けた存在に譲りたいとおっしゃった。その答えが、あなた自身のクローンというわけだ。 クローンだからといって、あなたとまったく同じ存在というわけではない。でも、半分違う人間の遺伝子から成り立った存在より、ずっと確かな継承者になる。 そうお考えなんでしょう?」 男は、念を押すように言った。 「そうだ。自分が永久に生きられるわけでない限り、それが最良の選択だからな」 「そう、わたしの出した結論も、まさにその通りだったのですよ。 では、最初にご呈示した金額でよろしいのですな?」 「うむ」 彼は、うなずいた。それは、小さな地方都市の年間予算くらいの金額だったが、彼の企業が生み出す利益から見れば、そういたいした金額ではなかった。 それに、今の世界で、合法にも違法にも人間のクローンを生み出せる人間は、この男の他にはいないはずだった。 これで、俺は、安心して自分の財産を残して死ねる。彼はそう思って、ここ何年も感じなかった安堵感に包まれたのだった。 だが、彼は知らなかった。 男が、学界を追われたのは、違法なクローン製造のせいではなかった。学界のドンの若い妻との不倫。それに、公金の横領。 そして、忘れていた。 世の中には、うりふたつの親子や孫なぞ、ざらにいるということを。
by htmkuromame
| 2004-06-23 18:35
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