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ぢぢっと、短く鳴いて、油蝉が松の樹から飛び去った。 大振りの枝を東に伸ばした松の影が、その枝に沿って長く伸びている。 その影に半分埋もれるようにして二人の男が、刀を抜いて対峙したまま小半時も動かずにいた。 城下の外れの海に近い馬場である。真夏のこの刻限では、他に訪れる者もなく、ふたりの影だけが松の影と混じりあって、次第に長くなって行った。 松を背に地ずりに刀をかまえた男は、黒ずんだ袴を付け、たすきをかけた上にわらじ履きである。身なりからして、城勤めの侍と見えた。大柄な男ではないが、よく鍛え上げられた体をしていた。 もうひとりは、八双にかまえているが、着流しで月代も大分伸びている。顔色も悪く鶴のように痩せた男だった。 城勤めの侍は、名を堅谷新左衛門といって、五十石取りの馬廻組の男だった。禄は低いが、城下にある大関道場では、無我意流の使い手として知られている。 だが、いたって人のよい男で、ついぞ声を荒げたところを見た者はなく、ひとは彼を「おっとり新左」と呼んでいた。 朋輩に「おとさん」などと呼ばれても、にこにこしているような男だった。 今年、二十八になるが、まだ独り者である。 着流しの男の方は、小鉈俊之助という浪人者で、半年ほど前に城下に流れてきて、土地の代貸しの用心棒として雇われていた。 腕は立つらしいという噂だったが、城の人間で、実際に小鉈が刀を抜いたのを見た者はいなかった。 武士とはいえ、ごろつきの用心棒である。城方の人間が気にすることでもなかったのである。 堅谷が、小鉈を斬れと命じられたのは、つい三日前のことだった。 命じたのは、大目付の泉州洛太夫である。 「小鉈という浪人者を斬ってもらいたい」 と、泉州は言った。 「は」 と、頭を下げて、堅谷はそのまま下がろうとした。 「わけを聞かんのか」 泉州は、聞いた。 「お上のご命令とあらば」 「ふむ。さすがだの。 だが、この度の仕事は、しくじるわけにはいかぬぞ。 小鉈は、幕府の隠密じゃ」 隠密、と聞いて、さすがの堅谷の横顔にも驚きの影が走ったように見えた。 我が藩にも、幕府に知られてはまずいことがあるのか、いや、あるのだろうな。普段、呼び名の通りあまり深くものを考えぬようにしている堅谷も、そう思った。 だが、理由はどうでもよかった。俺の仕事は、相手を確実に屠ることだけだ。それが、代々城主の隠し忍びとして、人知れず仕えてきた家に生まれた者の宿命だと、堅谷は割り切っていた。 堅谷家のその秘密を知っているのは、城主本人と大目付の職にある人間だけだった。 三日後、堅谷は、その松の下に小鉈を呼び出した。 松の影が、ずんと伸びたように見えた。 その刹那、八双にかまえられた小鉈の刀がその影をふたつに斬るようにして堅谷に襲いかかってきた。 小鉈の刀は、違わず堅谷の胴を薙いだかに見えた。 だが、地ずりにかまえた堅谷のからだはすでにそこにはなく、小鉈の刃はむなしく空を斬った。 「やっ」 そう叫んで上を振り仰いだ小鉈の首筋を、上から降ってきた堅谷の刀が存分にえぐっていた。 「手ごわい男だった」 そう呟くと、堅谷は、自分の腰に捲いた黒く塗られた細い綱を解いた。綱の一方は、真上に伸びている松の枝に結ばれている。 小鉈が動くのと同時に、堅谷は、地ずりにかまえていた剣先で、足もとの松の根に結わえられたもう一本の太い綱を切ったのだ。その綱は、松の太い枝を大きく下にたわませていたのだが、放たれた松の枝は、細い綱に結ばれた堅谷のからだを上に向かって跳ね上げたのである。 「ひ、ひきょうな」 事切れたと思った小鉈が、恨めしげな目で、堅谷を見上げていた。 隠密とはいえ、小鉈は、元々普通の武士のようだった。 やがて、がくりと首を落とした小鉈の顔を見ながら、堅谷は、いくぶん寂しげに呟いた。 「いいんだもん、俺は、忍者だもん」
by htmkuromame
| 2004-08-09 18:26
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